読書記録~防忘録~

読書記録です。時々、漫画やアニメにも独り言してます。

やがて満ちてくる光の 梨木香歩著 新潮社 2019年

 エッセイ集。あとがきに曰く、「掲載した時期も媒体もバラバラの、短い文章の群れ」。

森を歩き、鳥を観る。きのこの生命に学び、人の未来を思う……物語を育む日常の思索を綴る。「この文章が、いつか生きることに資する何かになってくれたら。受け手があって読んでくれて、初めて物語は完成する。作り手を離れ、そこから紡がれていく何かがあると思うのです。」――創作の萌芽を伝え、読み手を照らす光が、胸に静かに届きます。 (出版社HPより)

  前の本くらいから思っていたのですが、どうも梨木さんの本をうまく読み進められなくなっている感じがしまして。どうしてなのかなぁ。梨木さんの品位や知性、志の高さについていけない自分が大きくなっているような。それでも、前までは気にならなかったのになぁ、何故なんだろうなぁ。
 とはいえ、そのあたりの波を一つ乗り越えれば、滞りなく読めるのですが。


 蚊って血を吸うのは7種類しかいないんだってとか、リンドグレーンとペンフレンドの関係とか、厳しい修行を求めた修道僧が、弟子から慕われて、結局大きな修道院等が建ってしまって修業が厳しくなくなってしまった皮肉とか、カタバミと生クリームとあえたソースが鮭のムニエルにあうそうだよ、とか。
 色々面白いこと書いてあるなぁ、と特に琴線に触れた箇所を、母に「こんなことあるんだって」と一々読んでいたら、「一体何の本なの?」と訊かれてしまいました。だから「バラバラの、短い文章の群れ」なのね(笑)。
 ロンドンのホテルのバトラーさんのおもてなしっぷりに、『宝石商~』シリーズを思い浮かべてしまいましたよ。賞賛を期待する飼い犬さんには『犬と猫~』のワンちゃんを(笑)。
 掲載当時に起きた事件について思う所を述べたと思われる文章もあって、これは元々の事件も注釈として入れて貰えたらなぁ、と思ったり。何のことか思い出せなかったり、「あの事だよね…?」と思い当たることがあったとしても、確信が持てなかったり。まぁこれは、そのあたりのことははっきりしなくても、という意図があると取るべきなんでしょうね。

 作家さんや著作物への文章にはとにかく愛情が溢れていて。佐藤さとるさん手書きの地図の空白部分の読解、『クマのプーさん』の石井桃子訳への検証(「子どもの威厳をこの上なく傷つける」のは、私、父や兄にやられたなぁ。今でも覚えてる(苦笑;))。それが著者近影代わりに出したリスの写真を見ての幼児の一言「ほんとうは、リスだったの?」への梨木さんの対応にも現れているような。中島らもさんはそこで「10年落としのギャグ」にするかもしれませんね。『赤毛のアン』のアンの孤独については、氷室冴子さんも仰っていましたね~。

 M氏の家は、他人事ですが、惜しいなぁと思ってしまった。建築的な資料としての価値はなかったんでしょうか、一旦失くしてしまうと取り戻せないものの一つのような。これは私の祖父母の家が、阪神淡路大震災で失われてしまったという個人的な想いもあるかもしれません。未だに母と、いい家だったね、廊下の天井が見事だったね、トイレのガラスのドアノブを置いておけばよかったね、と折に触れ話に出てくる位で。梨木さんと偶然にも学究に関わる因縁があったとのこと。私でも一つの事柄について、あれ、何だかこのごろやたら目につくなぁ、と思うような事が重なることはあって、縁を感じるということになるんでしょうか。まぁ私の場合は、そういう所に無意識にアンテナ張ってるだけなのかもしれませんけど。

 「常によくあるべき」と思ってクリエイターに次回作のプレッシャーをかけ、勝手に「最盛期を過ぎた」と見限る、というのは誰でもよくやりがちなのでは、と思ったり。「最期まで看取る」のは作品にも通じる言葉なんだなぁ。このごろ、若いクリエイターさんが出て来るのを見るにつけ、「私は多分、この人の全作品を追いかけることはできないんだ」と少々寂しく思うようになりました。

 しかし、カブトムシの角は、ちょっと家宝にはしにくいなぁ(苦笑;)。