読書記録~防忘録~

読書記録です。時々、漫画やアニメにも独り言してます。

グリフィンとお茶を~ファンタジーに見る動物たち~ 荻原規子著 徳間書店 2012年

 「ナルニア国物語」のライオン王アスランは、なぜあれほど、特別な感じがするのか。『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』が伝える、現代の人間とはまったく異なる生き方とは…。
 子どもの本の中だけでなく、古典や神話においても重要な役割をになっている、幻獣やさまざまな動物たち。「勾玉」三部作、「RDG」シリーズなどで知られる、日本のファンタジーの旗手荻原規子が、幼いころから愛した〈動物物語〉をふり返りつつ、ファンタジーとは何か、物語が人の心にもたらすものは何かを掘り下げてゆく、珠玉のエッセイ。ファンタジーや児童文学、神話や古典の読書案内としても楽しめます。
                                          (表紙見返しの言葉より)
 
 装丁も可愛い一冊。
 取り上げられている動物は、クマ、馬、ライオンに猫、ユニコーン、イノシシ、ニシキヘビ、グリフィンなどなど。
 今回出てきた神話や児童書等々は、既読の作品が多くて嬉しかったです。ギリシャ神話や日本神話、『ナルニア国物語』『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』『ダークホルムの闇の君』『アルジャーノンに花束を』『だれも知らない小さな国』『フライングベン』『黄金の羅針盤』等々。『山月記』は荻原さんと同じく、高校の教科書でやりましたし。
 それだけに私も触発されて言いたいことが山ほど出てくるような。
 …とは言うものの、内容をすっかり忘れている作品もありましたけど。

 『ナルニア国物語』がキリスト教の寓意に満ちている、という話はあちこちで聞いていたのですが、私にはどうもぴんと来ていませんでした。「アスランの甦りがキリスト復活と掛かってるのかしら??」レベルで。今回、荻原さんのエッセイを読んで、ようやく理解できました。そうか、イエス・キリストの方ではなく、旧約聖書の神の方だ。引用されている文章を読むと、確かにそうとしか読みとれない。でも「ドラゴン」の章で出てきた『朝びらき丸 東の海へ』はラストシーンしか覚えていませんでした、すみません;
 『ダークホルムの闇の君』も、設定は覚えているのに、で、かなり爽快なお話だったことは覚えているのに、詳しい内容を思い出せない、う゛う゛…; 作者のダイアナ・ウィン・ジョーンズが昨年亡くなっていたことも知りませんでした。何時の間に…;;
 佐藤さとるコロボックル物語のシリーズは、私は一冊目の『だれも知らない小さな国』だけ読んでいます。…すごく面白く読んだ覚えがあるのに、この本と斎藤隆介さんの作品(『天の赤馬』とか『モチモチの木』とか)のおかげで、いまだにトチ餅は私にとって特別な、テンションの上がる食べ物になっているのに、どうして続きを読まなかったんだろうなぁ。そして私は、本家本元の『床下の小人たち』を読んでないのに、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』は読んでたことがはっきりしました。荻原さんも書かれてましたが、『ふたりのイーダ』と同じように、「戦争児童文学」の一環として課題図書かなんかになってた気がします。
 『フライングベン』や『走れ! クロノス』のおかげで私の描く犬や馬は手塚治虫そっくり、どうしても劇画調のリアリティのあるものになりません。これはちょっと今でも恨み節が入ります(苦笑;)。
 
 純文学というものを自分なりに定義付けするなら、読んで思わず我と我が身をふり返ってしまう作品ではないかと私は思っています。(とすると私にとって小野不由美さんの『十二国記』や梨木香歩さんの作品のいくつかは純文学になってしまうのですが) 『山月記』において荻原さんが汲み取ったことは、まさしくこれだ、と思いました。でもこの読み方を思春期の真っ只中、自意識過剰もいいところの時期で自覚するのは私には無理だったなぁ。だから今の私になってるんでしょうけど。
 
 ファンタジーを小説と同じ並びで論じてはならない、神話や昔話の流れにあるものだという見解には、確かにそうだ、と目から鱗の思いでした。成人後に研究目的で児童書を手にした人の意見が何となく信用しきれない、という意見にも大きく頷きます。だって、「きっと小さい頃なら楽しめたのに」と思える本に、私も沢山出会っているから。
 それでも、やっぱり手に取るんですけどね。今回も『最後のユニコーン』『豆つぶほどの小さないぬ』等々、読みたいなと思った本は目白押しでしたし。