読書記録~防忘録~

読書記録です。時々、漫画やアニメにも独り言してます。

新徴組 佐藤賢一著 新潮社 2010年

 佐藤賢一が語る幕末譚。

 清河八郎にそそのかされて、江戸から京に上った浪士組。そこに残って後々新撰組となった近藤、土方や沖田総司らと別れて、再び江戸に戻った一群もいた。やがて彼らは庄内藩の預かりとなり、江戸八百八町の警護を任されることになる。その名も新徴組。中には天然理心流試衛館、近藤勇の兄弟子である沖田林太郎もいた。
 沖田林太郎は総司の義理の兄に当たる。男子が産まれないからと沖田の家に養子に入り、その後総司が産まれた。林太郎はそのうち総司に家督を譲る気でいたが、息子・芳次郎が産まれて、総司との仲が軋み始める。総司が京へ行く、と言い出したのも自分達への気兼ねからではないのか、とくよくよと悩む性分、総司と共に京に上がり、でも林太郎自身は江戸に戻った。そこで林太郎は、庄内藩中老・酒井玄蕃の息子吉之丞と出会う。吉之丞は総司とよく似た面影を持っていた。
 酒井吉之丞は蘭語を話しフランス語を解する庄内藩きっての神童。これからは剣の時代ではないと洋式練兵に力を入れ、最新式の銃を使って編隊を組む。目先ではない、大局を見据える器の大きさが功を奏し、尊王攘夷で治安の乱れる江戸市中で、新徴組はやがて庶民の信頼を勝ち得て行く。
 大政奉還王政復古の大号令後、それでも滅びない徳川家に不満を募らせる薩摩藩は、新徴組に執拗な挑発を繰り返す。庄内藩が動けば、それを逆手にとって徳川を叩きのめす口実を与えることになる。耐えるよう進言する林太郎、吉之丞の思惑をよそに、庄内藩はとうとう薩摩藩屋敷を襲撃し、それは鳥羽伏見の戦いへ繋がった。
 またしても弟・総司を護れなかった。江戸へ帰って来た総司は、肺を病んですっかり痩せ細っていた。それでも総司は、林太郎に闘うよう懇願する。自分に代わって無念を晴らしてくれ、後ろ体重の守りの剣ではなく、前のめりの攻めの剣を取り戻してくれとの願いに、林太郎は新徴組と共に庄内へ移る決意をする。
 庄内藩会津藩と同盟を結び、官軍に備える。酒田湊の豪商から資金を出させて、最新式の洋式銃を揃える。上野輪王寺宮公現法親王を迎え、こちらも官軍を名乗る。米沢、仙台に声をかけ、越後・秋田も引き入れて、奥羽越列藩同盟が出来上がった。
 だが、急ごしらえの同盟は崩れ易かった。秋田藩に潜り込んだ薩摩藩士が勤皇派を焚きつけて、訪れていた仙台藩士を暗殺させる。秋田藩は一気に薩長軍に傾いた。
 林太郎と芳次郎はその場にいた。仙台藩士暗殺は防げなかったが、秋田藩の寝返りは即刻吉之丞に報告できた。背後を衝かれぬよう庄内軍は会津戦争への参加をとりやめ、北へと向かう。新庄藩を蹴散らしただけではなく、秋田へと攻め上る。鳥海山を越えて不意を突き、薩摩兵を久保田まで追い詰める。だが、そこで米沢藩の裏切りを知る。吉之丞は撤退を決めた。
 仙台藩も降伏し、会津城が落ち、庄内藩酒井忠篤は、謝罪降伏を決断した。…

 新刊紹介で見かけて、ちょっと首を傾げました。
 …新撰組じゃなくて新徴組? 佐藤賢一ってあの佐藤賢一だよね、同姓同名の別の人が書いたんじゃないよね??
 あの佐藤賢一さんだと言うことは、ページめくってすぐ分かりました。「語るぜ語るぜ俺は語るぜ」な文章は相変わらず健在、本当、特徴あるなぁ。
 浅学にして「新徴組」という存在を私は知りませんでした。庄内藩会津と共に戦ったと言うことも。何しろ幕末関係の知識はあまりなくてですね、それにしても庄内の人が「薩長憎し」と息巻いているとか聞いたことないなぁ、会津の人は今でも恨み骨髄に思ってると言うのは私でも聞いたことあるけど、と思ってたら。
 佐藤さん、お国自慢がしたかったんだね(笑)。
 俺たちの先祖はこんなにも勇敢で賢明で大らかだったんだ、庄内はこんなにもいい所なんだ、と言いたかったんだね(笑)。
 「おまわりさん」の語源が新徴組から来てることも初めて知りました。
 総司の姉ミツが、姉さんのせいじゃない、と総司に言わせたいばかりに「あたしのせいだ」と病床の総司にすがりつく、と言う場面はちょっとクビをすくめました。…これ、他人の行動では気付くこともあるんですが、自分でも無意識にやってるかもしれないんですよね。でもそういう愚かな所、弱い所も描いてこその佐藤賢一歴史絵巻。知らないことばかりで、面白かったです。